プロレスの偉人・伝説的なスター性があるレスラーの経歴や偉業をまとめていきます。
プロレスは時代とともにスター選手が誕生しています。
年代によっては好きなレスラーも変わりますが、普遍的にカリスマを持つレスラーはプロレス好きなら誰もが知っている方が多いですよね。
この記事ではカリスマ性・スター性を兼ね備えたレスラーの経歴や過去の偉業をまとめていきます。
今回ご紹介するレスラーは全日本プロレスで社長も務めた「三沢光晴」さんです。
プロレス団体は複数ありますが個人的に大好きな団体は全日本プロレスです。
特にジャイアント馬場さんの人間性をリスペクトしているので、その魂を学びたいと思っています。
目次
三沢光晴の経歴
本名 三澤光晴
リングネーム 三沢光晴、タイガーマスク(2代目)、カミカゼ・ミサワ(海外遠征時)
ニックネーム エルボーの貴公子、ミスター三冠など
身長 185cm
体重 110kg
誕生日 1962年6月18日ー2009年6月13日(46歳没)
出身 北海道夕張市生まれ、埼玉県越谷市育ち
リング入場曲 映画スパルタンXの主題歌
少年時代
1962年6月18日、北海道夕張市に生まれる。
父親の仕事の関係で、三沢光晴が生まれてまもなく埼玉県へ引っ越ししました。
子供の頃から運動神経が抜群で体が大きかった。
性格は内向的で内気な正確だった。
プロレスを知ったのは中学生時代で、テレビで全日本プロレス中継を見て「見るよりもやるほうが面白い」と直感したのがレスラーを志すきっかけになった。
小学生時代はボクサーになることを夢見ていたという話もあります。
当初は中学卒業後にすぐにレスラーになることを考えていたが、担任教師と母親に説得されて埼玉県のレスリングの強豪校で基礎体力をつけてからでも遅くないと説得されて3年生時にはインターハイで優勝をしている。
高2のときに寮を抜け出して全日本プロレスに入門をお願いしに行ったこともあったが、ジャンボ鶴田に「高校を卒業してからでもいい」と諭された過去がある。
後に二人は激しいトップ争いを繰り広げることになるとは、この当時は考えもつかないし、ファンに取っては運命の歯車はここから始まっていたのかもしれないとワクワクする話ですよね。
三沢光晴のスポーツ経験
スポーツ歴 レスリング、器械体操
小学生時代は野球をしたいと思ったが、地域の子供達と馴染めず断念
三沢選手といえばタイガーマスク時代から空中殺法技を使っていました。
マスクを脱いだあとも、リングからエルボースイシーダなどの空中技やキレのあるコーナーからの空中技は器械体操の基礎ができていたからですね。
三沢光晴の肉体の強さの秘密
幼少期はほとんど家で遊ぶことが多く、高校時代に始めたレスリングがレスラーとしての基礎体力となっているようです。
しかし、ファイトスタイルを見ると天性の運動神経と抜群のセンスで一躍トップスターまで駆け上がりました。
同年代のレスラー武藤敬司選手と同じくらい天才的な才能を持っていたので、他のレスラーとの比較とならないくらいのプロレスラーとしてのセンスは今でも語り継がれています。
レスリング経験は体力的な基礎力を伸ばすことだけ似関心があって、特に競技としての魅力を感じなかったと話していました。
三沢光晴の家族構成
三沢光晴さんの家族構成としては本人を含めて4人家族です。
奥さんと息子さん、娘さんがいます。
長男はレスラーの道へ進まなかったですが、もしデビューしていたとしたらファンとしては絶対に応援していきたいと思います。
奥さんとの出会いのきっかけは、リング上で花束を渡している奥さんに一目惚れで、その後のパーティーで電話番号を渡したのがきっかけでした。
三沢光晴のレスラーとしての偉業
レスラーとして社長として数々の伝説を残した三沢光晴さんの偉業をまとめていきます。
三沢光晴の必殺技
2代目タイガーマスクから、リング上でマスクを脱ぎ捨てて正体を自ら晒したあの伝説的なシーンは今でも目に焼き付いています。
洗練された技をいくつも世に送り込んだ三沢光晴選手の技を紹介します。
エルボーパット
タイガードライバー
エメラルド・フロウジョン
タイガー・ドライバー’91
タイガー・スープレックス(タイガー・スープレックス’84、猛虎原爆固め)
タイガー・スープレックス(タイガー・スープレックス2003)
タイガー・スープレックス’85
ダイビング・ボディ・プレス
ダイビング・ネックブリーカー・ドロップ
ドロップキック
フェイスロック
三沢選手の必殺技を見るとタイガーマスク時代に考案した技が多く、タイガースープレックスを進化させた「エメラルドフロウジョン」はネーミングセンスや技の難易度が高いことから、三沢選手だけが使いこなせる技だと思います。
三沢選手の代名詞のなる打撃系最強の技としてはエルボーパットが有名ですが、派生技として晩年は破壊力のある回転エルボーやダブルエルボーなどで小橋建太選手や、川田利明選手を苦しめた技でもあります。
獲得タイトル
- 全日本プロレス
- 三冠ヘビー級王座 : 5回(第10・14・17・20・23代)
- 世界タッグ王座 : 6回(第17・20・24・25・29・39代)
- アジアタッグ王座 : 2回(第51・67代)
- PWF世界タッグ王座 : 1回(第3代)
- NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座 : 1回(第17代)
- チャンピオン・カーニバル : 優勝2回(1995年・1998年)
- 世界最強タッグ決定リーグ戦 : 優勝4回(1992年・1993年・1994年・1995年)
- 1987年新春ヘビー級バトルロイヤル優勝
- プロレスリング・ノア
- GHCヘビー級王座 : 3回(初代・第5・11代)
- GHCタッグ王座 : 2回(第2・8代)
- 初代GHCヘビー級王座決定トーナメント:優勝1回(2001年)
- グローバル・タッグ・リーグ戦 : 優勝1回(2009年)
- プロレス大賞
- 1982年、新人賞
- 1985年、敢闘賞
- 1990年、殊勲賞
- 1991年、最優秀タッグチーム賞
- 1992年、特別大賞
- 1993年、最優秀タッグチーム賞
- 1994年、最優秀タッグチーム賞
- 1995年、年間最高試合賞
- 1997年、殊勲賞、年間最高試合賞
- 1998年、年間最高試合賞
- 2003年、年間最高試合賞
- 2007年、最優秀選手、年間最高試合賞
- 2009年、特別功労賞
三沢光晴の名勝負
46歳という若さでこの世を去った三沢光晴選手のベストバウトをまとめていきます。
三沢光晴選手といえば王者に君臨する期間が長く、試合運びや本気のプロレスで観客を魅了した選手です。
私自身、三沢選手の試合で何度も涙を流したほど感動する試合を毎回してくれました。
特に三冠ヘビー級や、タイトルがかかったメインイベントは確実にベストバウトに選ばれます。
その中でも小橋建太選手や川田利明選手との死闘は拳を握ってしまうほどの熱い試合を見せてくれました。
クールで冷静な三沢選手が試合後半になる頃にはなりふり構わずエルボーを繰り出す姿や、絶対に諦めない姿勢など、当時の私は三沢選手の頑張る姿にいつも支えられました。
三沢選手のプライベートの素顔・逸話
三沢光晴さんの性格を一言で言えば、責任感という言葉がまっさきに思い当たります。
社長としてレスラーとしての活躍は本当に大変なことだったと思います。
師匠でもあるジャイアント馬場さんの意思を引き継ぎ、一切の文句も言わず、怪我で苦しめられた膝を抱えながらも所属選手のために体を張っていました。
男気があふれる逸話としては、ジャンボ鶴田さんの付き人をしていた時代に、鶴田さんは付き人に対して雑用を言いつけたりしない方でした。
三沢さんも当時レスリング時代に辛い後輩時代を経験していたので自分は絶対に後輩に対して嫌なことはしないと誓っていたそうです。
理不尽な仕打ちを受けた経験を逆に同じことはしないと行動に移せる三沢さんはかっこいいですね。
冬木弘道さんの話も印象的でした。
おとなしい性格の三沢さんは怒らせると一番怖い人だと思う。
ヤーさんに結果をふっかけられたときも一歩も惹かない態度に冬木さん自身が心配するほどだったと言われています。
社長としての人間性もレスラーに対しての心遣いも素晴らしい方でした。
三沢さんは損得勘定で動かない人間で、ノアの経営者として大変だったのにも関わらず三沢さんは、休養中の給料保障、年間の最低保障を定め、所属レスラーを金銭面でバックアップすることにも心を使っていました。
全日本プロレスの社長時代には、会社の財政状態が厳しいにもかかわらず所属レスラーがかける保険の保険料を全額負担する決断を下している。
三沢選手の最後の試合でバックドロップをかけた齋藤彰俊が三沢選手が事故の2年前に「もしも俺がリングの上で死ぬことがあったら、その時の相手に伝えてほしい」と親しい友人に託した手紙を受け取っていたことが後にわかりました。
「重荷を背負わせてしまってスマン」「きっとお前は俺のことを信頼して、全力で技をかけてくれたのだと思う」「それに俺は応えることができなかった。
信頼を裏切る形になった。本当に申し訳ない」「それでも、お前にはプロレスを続けてほしい」「つらいかもしれないが、絶対に続けてほしい」と対戦相手が自らを責めることを予見した内容で、悩んでいた齋藤選手は10年たった今もその手紙を巡業用のバッグの中にいつもいれているという。あまり人に見せたことはないものではあったが、三沢さんの温かい人間性は男も惚れるものです。
三沢選手の癖
三沢選手の代表的な癖は、うつむき加減で相手をしたら見る独特な姿もかなり真似をしました。
汗ワイパーと言われる眉毛や目に入る汗を指先で振り払う仕草も、三沢さんになりたくて真似をしました。
いつも感動をありがとうございます。
あなたがいなくて寂しいです。
まとめ
この記事では天才レスラーとして全日本・ノアを牽引した三沢光晴さんについてまとめていきました。
毎週全日本プロレスの放送を楽しみにしていた高校生時代にタイムスリップするほど三沢光晴さんのファイトスタイルは鮮明に記憶に残っています。
三沢さんが残した魂は、言葉や映像ではなく、男としてどう生きるべきかを教えてくれたように思います。
様々な逸話や伝説がありますが、三沢さんのような男になりたいと思います。
本当に感動をありがとうございました。