プロレスの偉人・伝説的なスター性があるレスラーの経歴や偉業をまとめていきます。
名だたるレスラーの中で、ある意味最強と言わしめた日本人レスラーがいます。
全日本プロレスのジャンボ鶴田さんは、過去から現在のレスラーの中でもトップクラスのレスラーと言えます。
この記事では全日本プロレスで大活躍した「ジャンボ鶴田」さんの経歴や必殺技、プライベートの素顔や強さの秘密や逸話などをまとめていきます。
プロレス団体は複数ありますが個人的に大好きな団体は全日本プロレスです。
特にジャイアント馬場さんの人間性をリスペクトしているので、その魂を学びたいと思っています。
目次
ジャンボ鶴田の経歴
本名 :鶴田友美
生年月日:1951年3月25日
没年月日:2000年5月13日(享年49歳)
出身地 :山梨県東山梨郡牧丘町(現在の山梨市)
身長 :196cm
血液型 :O型
ジャンボ鶴田さんの出生秘話
広大なブドウ農園を営む山梨県に家に生まれたジャンボ鶴田さんは出産時の体重は3,000gとレスラーとして大きい体格を持つ方としては平均的な体重だった。
もともと体が小さかった鶴田さんは、女の子のようだからという理由で「友美」という名前をつけられたそうです。
お兄さんの話によると、小さい頃から家事の手伝いをして体を鍛えていたと言われています。
重量物を持って坂道を上り下りする作業がアマレスやプロレスで発揮した脚力のパワーの源になったということだった。
大きな病を経験することなく成長した鶴田さんは晩年に肝炎を患ったことを除けば大病には縁がありませんでした。
スポーツの経験
中学時代は野球、高校時代はバスケットボールで青春時代を過ごしました。
当時の悩みは靴のサイズが合わなくて靴を購入することに苦労していたようです。
高校に進学してからも野球を続けたかったが、視力の低下により、大きなボールを扱うバスケットボールに転身する。
相撲大会にも出場して3位の実績があります。
中学時代には、体験入門のつもりだったが、間違って新弟子検査に合格してしまい、叔父が慌てて話をつけて新弟子検査を取り消しにしてもらった過去があった。
もしかしたら角界にジャンボ鶴田の名前が残っていたのかもしれないと思うと運命というのは数奇なものだと感じるエピソードですね。
ジャンボ鶴田の肉体の強さの秘密
幼少期は家事を手伝いトレーニングをしていた。
高校時には、バスの乗り心地が悪く、自転車通学をしていたようです。
圧倒的な脚力はその時に鍛えられていたと言う逸話があります。
通学の道は砂利道だったために何台も自転車を潰したという話があります。
全日本プロレス入団後はスター選手として長く君臨しましたが、ジャンボ鶴田さんのトレーニングの秘密を知る当時の後輩、小橋建太さんの話によるとダンベルなどのウエイトトレーニングは一切されなかったと言う逸話があります。
ジャンボ鶴田さんのトレーニングは主に自重トレーニングやタオルを引き合うトレーニングなど重心や体のコアな部分を鍛えるトレーニングを多用されていました。
ジャンボ鶴田さんが繰り出す技は肉体的な強さとしなやかなバネが支えることで、一つ一つの技が研ぎ澄まされていました。
特にボディースラムやバックドロップというシンプルな技はそれだけで必殺技となるくらいに威力がありました。
ジャンボ鶴田の家族構成
ジャンボ鶴田さんの奥さんは、元CA(キャビンアテンダント)の鶴田保子さん(旧姓は荒牧)です。
2人は1984年9月23日に結婚しています。当時の年齢はジャンボ鶴田さんが33歳、嫁の保子さんが27歳でした。
お子さんは息子が3人で長男はレスラーとして活躍しています。
ジャンボ鶴田のレスラーとしての偉業

レスラーとして数々の伝説を残したジャンボ鶴田さんの偉業をまとめていきます。
ジャンボ鶴田の必殺技
ジャンボ鶴田さんの技はプロレスの基本的な技が多く、それぞれの技一つ一つに破壊力がありました。
相手選手の強さに応じてバックドロップのひねりや角度を変えていたという逸話は伝説的です。
小橋建太選手は当時デビュー2年目ほどでシングルマッチをジャンボ鶴田さんと試合をされていましたが、手加減をされているとわかったくらいですから、相手の強さに応じて使い分けているのは試合に余裕を持っている選手でなければできないことですね。
海外選手にはめっぽう強いジャンボ鶴田さんは精神的な強さもずば抜けていました。
相手の選手にわざと責めさせて、その間に体力を回復するという試合運びは、並み居る外国人選手をマットに鎮める結果になりました。
とにかく呼吸を整えるのが早く、息が上がることがそれほどなかったという伝説もあります。
晩年多用した「ジャンピングニー」は下からえぐるような威力があり、三沢選手や小橋選手、川田選手らもかなり苦戦されていました。
フィニッシュ・ホールド
- バックドロップ
- バックドロップ・ホールド
- パワーボム
投げ技
- ブレーンバスター
- 雪崩式ブレーンバスター
- 前方叩き付け式ブレーンバスター
スープレックス
ジャーマン・スープレックス
- フロント・スープレックス
- サイド・スープレックス
- ダブルアーム・スープレックス
関節技
- 拷問コブラツイスト
- 逆エビ固め(ボストンクラブ)
- インディアン・デスロック
打撃技
エルボー・バット
- エルボー・スマッシュ
- ローリング・エルボー
- ジャンボ・ラリアット
- ジャンピング・ニー・バット
- ダイビング・ニー・アタック
- ダブル・ジャンピング・ニー・バット
- ダブルチョップ
- ドロップキック
- ミサイルキック
- フライング・ボディシザース・ドロップ(テーズ・プレス)
- タックル
- キチンシンク
- レッグ・ラリアット
- 延髄斬り
- ビッグブーツ
獲得タイトル
タイトル歴
- 三冠ヘビー級王座 – 3度戴冠
- AWA世界ヘビー級王座
- インターナショナル・ヘビー級王座 – 3度戴冠
- UNヘビー級王座 – 5度戴冠
- インターナショナル・タッグ王座 – パートナーはジャイアント馬場、天龍源一郎、谷津嘉章。
- PWF世界タッグ王座 – パートナーはタイガーマスク(2代目)、谷津嘉章。
- 世界タッグ王座 – 7度戴冠。パートナーは谷津嘉章(5回)、ザ・グレート・カブキ、田上明(各1回)
- NWA認定デトロイトタッグ王座 – パートナーはジャイアント馬場。1980年6月28日にアメリカ合衆国デトロイトで行われたワンナイトトーナメントで優勝して獲得したが、1度も防衛戦を行わずにタイトルを返上した。
- チャンピオン・カーニバル – 2度優勝。(1980年、1991年)
ジャンボ鶴田の名勝負
49歳でこの世を去ったジャンボ鶴田。
その中でベストバウトを決めるのはかなり至難の業です。
ジャンボ鶴田さんの強さは誰が見ても日本人レスラーNO1だということが言えるのですが、ジャンボ鶴田さんの活躍は、レスラーの晩年の時期、特に油の乗り切った時期に、全日本の看板を背負う3人のレスラーとの死闘が記憶に鮮明にあります。
特に三沢光晴や小橋建太、川田利明の三名のレスラーとの死闘は、今でも涙があふれるくらいに感動する試合でした。
ジャンボ鶴田さんの異名は多く、その中でも特に印象深い異名は「無尽蔵の体力」が印象的ですね。
あの当時は高角度のスープレックス技がなかったのですが、デンジャラスな技が生まれたのがジャンボ鶴田さんの技が発端だと思います。
それほど若い世代の三沢、小橋、川田の勢いが凄かったのだと思います。
ジャンボ鶴田さんも必死に戦っていたのでしょうね。
ジャンボ鶴田のプライベートの素顔・逸話
ジャンボ鶴田さんは生真面目という言葉がぴったりなレスラーでした。
その逸話として、1972年のミュンヘン五輪にレスリング日本代表として出場後、ジャイアント馬場の門下生となったときに、全日本プロレスに入門するという表現を「就職」という言葉を使ったのは印象的でした。
試合とプライベートを明確に分け、試合という名の業務が終われば鶴田友美としての時間を大切にしたと言われています。
「俺は俺のプロレスをやるだけ。それがイヤな人は、ファンになってもらわなくても結構」
これほどまでに個性が強いレスラーは今後生まれないのではないかと思うくらい、自分の意思を貫く男気のある方でした。
普段のジャンボ鶴田さんは柔和な物腰の柔らかい方ですが、いざ試合となれば鬼の形相になり、別人と言われる程の変貌ぶりはレスラーの間でも有名でした。
ジャンボ鶴田の経歴・必殺技のまとめ
この記事では日本人最強のレスラージャンボ鶴田さんの経歴や逸話をまとめていきました。
今でも目をつぶれば繊細で、ダイナミックなファイトスタイルが目頭を熱くさせる偉人として記憶に新しいところです。
鶴田さんの戦いを目の当たりに見れる時代に生まれて本当に幸せでした。
今でもジャンボ鶴田さんのあの熱い戦いを見たくなります。